他人の不倫に対して、理想的な対応というのは、いったいどのようなものなのか?
イタリア・アドリア海沿岸地域の人たちから、そのような事を学べると僕が感じた話を書いてみたいと思います。
海外には、フォーマルではないがインフォーマルでもない、「セミフォーマルの不倫」が制度化されている地域がいくつかあるようですね。
中でも有名なのが、イタリア・アドリア海沿岸地域らしいです。
そこでは、不倫が、まさに日常茶飯事に行われているようなんです。
あちらこちらで不倫関係があることをそこに住んでいる人たちは知っていながら、でも誰もそれを公然と口にすることはないようです。
誰もが見て見ぬふりをしているようです。
不倫の事実を公然と口にしたものは村八分にされてしまうようです。それはルール違反だということですね。
都会のような人の流動性の激しい場所ではなく、地方などの人の動きが固定化された人間関係の濃い地域では、不倫が公になってしまうと地域や家庭生活が破壊されてしまうので、そのような暗黙のルールが生まれたのでしょう。
ただ、不倫が皆の「暗黙の了解」として公認されているとはいえ、「身分違いの関係」や、かなりの「年の差がある関係」は否定されるようです。
それが人々のゴシップの対象になり、不倫関係が漏洩してしまう、という危険性の高いものは、人々に受け入れられないんですね。
最も望ましい不倫関係とされているのは、「同じ階級同士」の「既婚者同士」の関係のようです。
「ダブル不倫」と呼ばれる関係ですね。
そのような不倫関係の場合、数年~数十年、場合によっては一生続くこともある、と言われているようです。
日本でもそうですが、既婚者同士のダブル不倫は、間違いなく一番安定するケースでしょう。
結婚生活では満たされない思いを、秘密の関係で静かに満たし合う。
そしてそのような関係を周りの人は気付いていても、気づかないふりをしてそっとしておく。
否定するでも肯定するでもなく、ただ知らぬふりをする。
不倫当事者にとって、これほどありがたい対応はないですよね。
不倫をした人を当事者以外の人たちが徹底的に叩く、という最近の日本の風潮が、少しでもアドリア海の人たちのような対応に変わればいいのにな、と感じてしまいます。
社会学者の宮台真司さんは、そのような最近の日本の風潮をこのように分析していました。
そのような気持ちが半自覚的、半無意識的に働き、当事者ではなくても憎しみを抱き、多くの似たような人たちと一緒に激しく叩き続ける。
そのような行動の原動力は、ただの「嫉妬心」だと。
もちろんそうじゃない人もいるんでしょうが、昨今の異様なほどの不倫バッシングを見るにつけ、自らもあまり自覚しないまま、「嫉妬心」に駆られた大勢の人たちがメディアにも煽られて行動しているように感じます。
アドリア海の人たちとは、まさに正反対の言動ですよね。
不倫したければすればいいし、したくなければしなければいい。
それは成熟し、自立した個々人が、他人は全く関係なく自ら判断するだけ。
そこに「嫉妬心」が介在することなど、ほとんどないわけですね。
他人の不倫に対しては、やっぱりアドリア海の人たちのような態度を取りたい。
それが自立した成熟した大人の対応だという風に思いますし。
アドリア海の人たちの「セミフォーマルの不倫」という話を聞いて、そのような事を感じました。