村上春樹の短編小説『ドライブ・マイ・カー』が、主演・西島秀俊で映画化されました。
『女のいない男たち』という短編小説集に収録されている『ドライブ・マイ・カー』。
これは非常に興味深い作品なんですよね。
なので、どのように映像化されているのか、とても楽しみです。
このように映画紹介されていましたが、一言でいえば「不倫」を主題にした作品なんです。
家福は、共演した女優と結婚して、幸せな生活を送っていた。セックスを含めてとても満足な家庭生活を送っていた。
でも、妻は少なくとも4人の男性と不倫していた。
そのうち、妻は病気で死んでしまった。
家福はなぜ妻が他の男とセックスを繰り返さねばならなかったのか、その理由を知ることもできず、妻を失ってしまった。
その事実に苦しんでいるわけです。
家福と、家福の専属運転手・みゆき(映画では三浦透子が演じる)が車の中で交わす会話が物語の中心です。
二人の会話は非常に興味深く、示唆に富むものが多いのですが、その中から僕が特に興味を引かれた部分を少しだけ引用してみたいと思います。
まず、最初はこちらです。
ある時から、家福は妻の最後の不倫相手と酒を飲み交わす関係になった。
家福の専属運転手・みゆきは家福に聞いてみた。
「それで家福さんには理解できたんですか。どうして奥さんがその人と寝たのか?」
「いや、理解はできなかったな。彼が持ち合わせていて、僕が持ち合わせていないものは、いくつかあったと思う。というかたぶん、たくさんあったんだろうと思う。
そのうちのどれが彼女の気持ちを捉えたのかそこまではわからない。僕らはそんな細かいピンポイントのレベルで行動しているわけじゃないから。
人と人とが関わり合うというのは、とくに男と女が関わり合うというのは、もっと全体的な問題なんだ。もっと曖昧で、もっと身勝手で、もっと切ないことだ。」
この言葉が、男女関係、男女の不倫関係の曖昧さをとても端的に本質を凝縮して表現しているように感じました。
まさにそうですよね。
なぜ好きになったか、なぜ不倫するようになったかなんて本当のところは本人も全く分からない場合も多いですよね。
それは「全体的な問題」であって、「曖昧な問題」です。
身勝手なことで、そこには切なさが伴います。
そして、「不倫」された側が感じる、「つらさ」の中心にあるものが繊細に描写された部分がこちら。
「僕にとって何よりつらいのは、僕が彼女を─少なくともそのおそらくは大事な一部を─本当には理解できていなかったということなんだ。
そして彼女が死んでしまった今、おそらくそれは永遠に理解されないままに終わってしまうだろう。
深い海の底に沈められた小さな堅い金庫みたいに。そのことを思うと胸が締めつけられる。」
パートナーが不倫して最も傷つくのはやっぱりこういうことですよね。
セックスをするという、自分以外の異性に、体や心を剥き出し状態で曝け出している、という事実。
なぜ自分以外の相手に、そのような事をしなければならなかったのか。
不倫された側は、そのように思い悩むわけですよね。
そして更に、家福がどうしても納得できなかった部分があるわけです。
とても奥が深い魅力的な妻が、内面的な薄っぺらさを宿す男と、なぜ浮気しなければならなかったのか。
「はっきり言ってたいしたやつじゃないんだ。性格は良いかもしれない。ハンサムだし、笑顔も素敵だ。そして少なくとも調子の良い人間ではなかった。でも敬意を抱きたくなるような人間ではない。
正直だが奥行きに欠ける。弱みを抱え、俳優としても二流だった。それに対して僕の奥さんは意志が強く、底の深い女性だった。時間をかけてゆっくり静かにものを考えることのできる人だった。
なのになぜそんななんでもない男に心を惹かれ、抱かれなくてはならなかったのか、そのことが今でも棘のように心に刺さっている。」
妻の浮気相手(映画では岡田将生が演じる)と何度も酒を飲み、語り合い、妻が浮気しなければならなかった理由を探ろうとした家福。
でも、いくら時間をかけても、それは全く分からなかった。
以前よりも混乱してしまった。
もともと友達が少ない家福だったが、妻の死後、更に心を閉ざして誰にも心を開こうとしなくなった。
そんな家福が、ひょんなことから専属運転者になった自分よりもかなり年下であるみゆきの言葉に救われることになるのです。
みゆきが言った。
「それはある意味では、家福さん自身に向けられた侮辱のようにさえ感じられる。そういうことですか?」
「奥さんはその人に、心なんて惹かれていなかったんじゃないですか。だから寝たんです。」
シンプルな言葉ですが、この本質を突くみゆきの言葉によって家福は救われるのです。
そのような浮気・不倫関係というのも間違いなくあるでしょう。
心を惹かれるから寝ることもあれば、心なんて惹かれてないから寝るという関係。
家福自身が前に語った言葉。
男女が関わり合うというのは、「全体的な問題」で「曖昧」で「身勝手」で「切ない」もの。
理屈じゃない面が多々あるわけです。
男と女の関係なんて、本当に色々あるわけですよね。
僕は『ドライブ・マイ・カー』を読んで、色んな感情、思いが沸き起こってきました。
そのひとつが、前にも書いたことがある、僕の奥さんが実際に不倫したときのことです。
奥さんは、その不倫相手の子供が欲しいと狂わんばかりに愛していたのです。
しばらく経ってから、仲のいい友達夫婦と4人で飲みながら、ちょっとしたきっかけで「不倫」について深く語り合う機会があったんです。
その時、奥さんがこのように話したんです。
彼との関係が終わった後、その彼は同じ職場の何人もの女性と寝ていたという事実を知ってしまった、ということでした。
この真実の告白には衝撃を受けました。
奥さんがその不倫相手の子供が欲しいとまで思い込んでいた、という過去の気持ちは、すでに自分の中で処理・消化されていました。
そこへこの新事実を聞かされたわけです。
奥さんが深く彼を愛していたように、彼に深く愛されていたなら、それでよかったと思っていたんです。
深く愛し愛される濃密な経験というのは、人生においては色んな意味で間違いなく大きな財産となるわけですから。
でも、実際はそうではなく、お手軽にセックスできる数人の相手の中の一人という扱いをされていたわけです。
僕はそれを聞いて、奥さんの事が本当に可哀想で、切なくて、そして心底愛おしく思うという、今まで経験したことがないような、自分でもなかなか理解できない複雑な気持ちを抱いていたのです。
あれから時間が経った現時点で思い返しても、それは今までの人生で感じたことのない不思議で何か達観したような感情だったように思います。
そしてその話を聞いた夜のセックスは、今までで一番濃密な、色んな感情が混ざり合ったような、全てをぶつけ合い全てを受け入れるというような、経験したことがないような快楽にお互いが飲み込まれていくような、そんなセックスに発展していったのです。
男女が関わり合うというのは、「全体的な問題」で「曖昧」で「身勝手」で「切ない」もの。
男女関係、夫婦関係、そしてセックスというものは、何とも不思議なものだと感じ入りました。
それが『ドライブ・マイ・カー』によって呼び起された僕の記憶です。
もうかなり前の話です(笑)
『ドライブ・マイ・カー』は短くてすぐ読める短編小説なんですが、とても味わい深い作品です。
心の奥底にしまい込んでいたものが刺激されるような、それが記憶の表面に浮かび上がってくるような、そんな力のある作品でした。
そのような作用をもたらすというのは間違いなく優れた作品ですよね。
そんな優れた小説がどんな映画に仕上がっているのか、とても楽しみです。
映画が公開されたら観に行きたいと思っています♪
映画『ドライブ・マイ・カー』の監督は、濱口竜介。
『寝ても覚めても』(カンヌ国際映画祭コンペティション部門正式出品)、『スパイの妻』(ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞)で脚本を担当して評価を高めていた気鋭の監督ですね。